金融先物取引とは?
『地獄変』(じごくへん)は、大正7年(1918年)に書かれた芥川龍之介の代表的な短編小説。これは、『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀」という説話を基に、芥川が独自にアレンジしたものである。また、高校課程において、この小説を扱う学校は多い。ちなみに、基になっている「絵仏師良秀」も高校課程において古文編に扱われていることが多い。
主人公である絵仏師の良秀が、堀川の大殿様のために地獄変の屏風を描くところからこの小説は始まる。良秀の娘は殿の女房であり、親思いで気立てのよい女である。良秀も彼女をかわいがっていたが、殿の女房として働くが故に良秀が娘とともに過ごせることはなかった。良秀は絵の制作過程において段々と狂人と化して行く。最終的に良秀は屏風が後少しの所で描けぬと殿に訴え、モデルが必要だとして実際に人を焼く。それに選ばれたのが(作品により大殿によるとも良秀みずから指名したとも)かの娘であった。実際に彼女が焼かれる時、殿はその恐ろしさ及び絵師良秀の執念に圧倒され終始青ざめていた。良秀は見事な地獄変の屏風を描き終えるが、数日後に部屋で縊死する。
『仕掛人・藤枝梅安』(しかけにん ふじえだばいあん)は、小説家・池波正太郎が小説現代で昭和47年(1972年)から平成2年(1990年)の間に発表した全38篇の連作時代小説。主人公藤枝梅安の表の顔は鍼医者だが、その実、凄腕の仕掛人(殺し屋)である。仕掛人は、依頼者(起り)からの依頼を取り次ぐ仲介人(蔓)を通じて殺しを請け負う。
もともと池波が本作に先駆けて、昭和43年(1968年)頃から小説現代や小説新潮などで発表した仕掛人を主人公とした短編数篇が好評だったことから始まった作品で、小説現代昭和45年(1970年)8月号掲載の「
日経225
」から彦次郎、小説新潮昭和46年(1971年)2月号掲載の「顔」から音羽の半右衛門という人物が「梅安」シリーズにレギュラーとして登場する。
連載開始間もなくして、本作や小説新潮昭和46年(1971年)11月号掲載の「殺しの掟」などを原案とするテレビ時代劇『必殺仕掛人』が企画され、テレビとほぼ同時進行で原作も執筆されるという、一種のメディアミックス的な作品として連載された。平成2年(1990年)に作者が急逝したため、未完の絶筆扱いとなっている。
また『必殺仕掛人』シリーズのように大きなアレンジを加えずに本作を映像化したテレビ時代劇が、放送時期や主人公の梅安役を変えて3度にわたり放送されており、またそれに先だって映画も1本が作られている。さらに最近になって、漫画化もなされている。(これらについては後述)
それまで童話作家やフリーライターとして活躍していた作者が1993年3月にカドカワノベルズで発表・掲載した初の一般小説にしてホラー作品。後に1996年8月に角川文庫で出版された。作者の生まれ故郷である四国の高知県を舞台とし、四国八十八箇所のお遍路や土俗的な信仰を題材とし、男女の三角関係などを交えて描かれている。1999年1月23日に同名の映画が公開された。映画版は栗山千明のデビュー作となった。
ストーリー
四国八十
外為
の霊場を死者の歳の数だけ逆に巡ると、死者が蘇るという禁断の「逆打ち」なる儀式が存在する。娘の死を悲しむ母親が、その「逆打ち」を行ったことにより生じる恐るべき物語……。
久々に故郷の四国は高知県の矢狗村に帰って来た明神比奈子(夏川結衣)。そこで比奈子は幼馴染みの日浦莎代里(栗山千明)が16の若さでこの世を去った事を知り驚く。そしてもう一人の幼馴染みの秋沢文也(筒井道隆)と再会した比奈子は文也から莎代里の死に関するある不吉な噂を聞く。それは代々死者の霊と交流する口寄せの家柄だった日浦家の跡取りである莎代里が、事故死などではなく霊を呼び出す儀式の最中に悪霊に取り殺されたというものだった。莎代里と交際していた文也は未だに莎代里の死を引きずっていた。そんな文也を案じ、気遣う比奈子は次第に文也に淡い想いを抱くようになる。文也もまた比奈子が莎代里を喪った悲しみを癒してくれそうな気がして、比奈子との距離を縮めていった。ある日村の聖地である“神の谷”に祀られていた地蔵の首が?がれるという奇怪な事件が起こる。その事件を境に村では次々と不気味な現象が起こるようになった。その怪現象の原因は莎代里の母・照子に因るものだった。照子は由緒正しい日浦の血を絶えさせない為に、逆打ちで莎代里を蘇らせようとしていたのだ。死者の歳と同じだけ逆打ちを行うと黄泉の国の結界が破られ、四国はたちまち死者の楽園となってしまうのだという。比奈子と文也はその事実を知って照子の計画を阻止しようとするが・・・。
この世で最も冥土に近いと云われる四国を舞台に繰り広げられるジャパネスクホラー。
「生きて恋を成就させたかった。」
大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年1月31日 - )は、
FX
の小説家。
愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)出身。血液型はA型。東京大学文学部フランス文学科卒。大学在学中の1958年、「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。サルトルの実存主義の影響を受けた作家として登場し、戦後日本の閉塞感をグロテスクな性のイメージを用いて描き、石原慎太郎、開高健とともに第三の新人の後を受ける新世代の作家と目される。その後外国文学の読書経験から独特の詩的な文体を獲得し、核や国家主義などの人類的な問題と、故郷の四国の森や知的障害のある子供(長男の大江光)という自身の体験とを重ね合わせ独自の文学世界を作り上げた。1994年ノーベル文学賞受賞。
主な作品に『個人的な体験』『
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』『洪水はわが魂に及び』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『人生の親戚』など。一時は1995年完結の『燃えあがる緑の木』を最後の小説にするとしていたが、1999年より執筆を再開。以降の『取り替え子(チェンジリング)』などの作品は自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と位置づけている。
映画監督伊丹十三は義兄にあたる。
生い立ちから作家デビューまで
1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちの大江の文学世界の形成に大きく関わることになる。1941年、大瀬小学校入学、この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1947年、大瀬中学校入学。この年新憲法が施行され、自身の思想を形作るうえで多大な影響を受けた。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめをうけたため翌年愛媛県立松山東高等学校へ編入。このときのいじめの体験はのちに『芽むしり仔撃ち』で題材とされている。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを愛読。東高では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。東高在学中、同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。
1953年に上京、予備校に通ったのち翌1954年東京大学教養学部文科二科に入学。学生演劇の脚本として「天の嘆き」「夏の休暇」を執筆、教養学部学友会機関紙に「火山」を掲載し銀杏並木賞受賞。このころパスカル、カミュ、フォークナー、ノーマン・メイラー、安部公房などを愛読、またサルトルに興味を持ち始める。1956年、フランス文学科にすすみ渡辺一夫に師事。このころよりサルトルを原書で読み始める。
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の脚本「死人に口なし」を執筆、また戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに当選。同年10月、立川基地拡張反対のデモに参加する。
1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が『東京大学新聞』に掲載、『毎日新聞』で平野謙の激賞を受ける。これを契機として同年『文学界』に「死者の奢り」を発表し、学生作家としてデビュー。「他人の足」「石膏のマスク」「偽証の時」を次々に発表。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となり、川端康成や井上靖、舟橋聖一の推薦を受けるが、この回は開高健の『裸の王様』が受賞した。デビュー時よりサルトルの実存主義からの影響を強く受けた作家とされたが、この「死者の奢り」について江藤淳は、「実存主義を体よく表現した小説」というよりも、安岡章太郎や川端康成などの叙情家の系譜につらなる作品ではないかと分析している(新潮文庫『死者の奢り・飼育』解説)。
芥川賞作家として
デビューの翌1958年、長編小説『芽むしり仔うち』を発表。同年、「飼育」で第39回芥川賞を23歳で受賞。1956年の石原慎太郎に続き当時最年少での受賞となった。選考委員の川端康成は、「芥川龍之介と大江健三郎では時代も、才質も作風も違うが、23、4の学生が、異常な題材を小説に仕上げた点を芥川と似通ったものと解釈し、芥川龍之介の名前を冠した賞に加えたいと思った」とした。一方舟橋聖一は前回の芥川賞の選考に異議を唱える立場から、「飼育」よりも「死者の奢り」にこそ賞を出したかったという選評を行っている。
また、同1958年に、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
1959年、東大卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」。同年書き下ろし長編『われらの時代』刊行。この作品から性的な主題を全面に押し出すようになる。またこの年に武満徹と知り合う。翌1960年、伊丹ゆかり(伊丹十三の妹)と結婚。
1961年、浅沼稲次郎暗殺事件に触発され『セヴンティーン』とその第二部『政治少年死す』を発表。犯人の山口二矢をモデルとして描くが、この作品に対し右翼団体によって文藝春秋等に脅迫が行われた。このため『政治少年死す』は単行本に収められていないが、鹿砦社の『スキャンダル大戦争2』に、著者の許可なく収録されている。
1963年、長男の光誕生。頭蓋骨異常のため知的障害を持つ子供として生まれる。「障害を持つ子」の誕生は、戦後社会に希望を持てない青年を描いてきた作家にとって転機となった。1964年、『個人的な体験』で第11回新潮社文学賞受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、想像力によって悲劇を乗り越えるに至るまでを描いた作品であり、「想像力」は以後大江作品のキーワードの一つとなる。同年、広島に何度も訪れた体験や世界原水爆禁止大会に参加した体験を元にルポルタージュ「ヒロシマ・ノート」の連載を開始。これ以降の大江は、障害を持つ子供という「個人的な体験」と、広島の被爆という「人類固有の悲劇」を自身の主題として深めていく。