金融先物取引法とは?
1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表、第3回谷崎潤一郎賞受賞。万延元年(1860年)に四国の村で起こった一揆と、100年後の安保闘争とを重ね合わせて描き大きな反響を呼んだ。この作品から顕著になる特異な文体はしばしば難解とも言われるが、近代の標準的な日本語である東京方言に対抗しうる詩的な言語として、ノーベル文学賞に選出された際の受賞理由として挙げられている。しかし江藤淳はこの作品を厳しく批判し、以後大江と対立するようになる。
『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(1969年)を経て1972年に発表された中篇『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『ムーン・マン』では、前年の三島事件を受けて天皇観を問い直すことを主題とし、その後の『洪水はわが魂に及び』(1973年、野間文芸賞受賞)、『ピンチランナー調書』(1977年)では天皇制や核の問題を考えつつ、大江の後期のテーマである「魂の問題」に移行していく。40代から山口昌男らの文化人類学の影響を受け、1979年に発表された『同時代ゲーム』では、村=国家=宇宙の歴史を書く主人公の物語を描いたが、文芸評論家からは名声を確立したあとの「奢り」のようなものとして批判を受けた。ただし大江自身は、宇宙の創建者である「壊す人」や魂の問題を取り上げたものとして、自身の作品の中でも重要なものと位置づけている。
1982年、武満徹の「雨の樹」に触発された連作集『「雨の木(レインツリー)を聴く女たち』を発表、翌年に第34回読売文学賞受賞。1983年の『新しい人よ眼ざめよ』では、ブレイクの詩を引用し、大江自身の子供の言葉と重ね合わせて自身の私生活を描いて、第10回大佛次郎賞受賞。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにして『懐かしい年への手紙』を発表した。1989年の『人生の親戚』では初めて女性を主人公とし、子供を失った女性の悲劇を描いて第1回伊藤整文学賞を受賞した。1990年に発表された連作『治療塔』では、SFの枠組みを借りながら核と人類救済の主題を描いている。 1994年1月、朝日賞受賞。同年10月13日にノーベル文学賞を受賞。川端康成以来26年ぶり、日本人では二人目の受賞者となる。記念講演として川端の「美しい日本の私」をもじった「
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」を行なう。11月より三部からなる大作『燃えあがる緑の木』刊行開始。四国の村を舞台に「魂の救済」のテーマの集大成を行なった。
後期の仕事(レイト・ワーク)
1995年に『燃えあがる緑の木』が完結。当初大江はこの作品を自身の「最後の小説」としていたが、1996年、武満徹の告別式の弔辞で新作を捧げる発言をし、1999年の『宙返り』で執筆活動を再開した。以降の創作活動は大江自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と読んでおり、伊丹十三の死をうけて書かれた『取り替え子』(2000年)、それに続く『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)は、「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する後期三部作として位置づけられている。三部作最後の『さようなら、私の本よ』では、三島由紀夫と戦後の問題を自身の人生と重ね合わせ、デビュー作の『奇妙な仕事』に回帰するという複雑な構成を取った。三部作をはさんで2002年には、自身の唯一のファンタジーとして児童向けに『二百年の子供』を発表している。最新作は『新潮』連載の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年)である。
2006年、大江健三郎賞設立。大江自身が日本の優れた小説作品を選び、受賞作は英語・フランス語などに翻訳刊行される。
政治思想
戦後民主主義者を自認し、
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主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また平和憲法を守る立場から核兵器や憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引き、「抗議すること」という概念に言及した。また芸術院会員となったり文化勲章を受けたりする文学者の姿勢には批判的であり、ノーベル文学賞は“スウェーデン国民から贈られたと言えるもの”として賞を受けたが、その直後に文化勲章と文化功労者の授与が決定した際、「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」として受章を拒否した。 2003年の自衛隊イラク派遣の際は「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した[1]。2004年には、憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺記念館などに訪れた。北京大学付属中学校で行われた講演では、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に触れて「日本と日本の若い世代の将来を最大限に損ねるものだ」と述べた。
評論家からの批判
毎日新聞1958年6月25日夕刊に掲載されたコラム「女優と防衛大生」において、大江は「ここで十分に政治的な立場を意識してこれをいうのだが、ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている。そして、ぼくは、防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたいと考えている。」 と発言したことが、防大生や防大出身の幹部自衛官の人格を否定するものだとして批判を招いた。(小川和久「
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経済大国」、杉山隆男「兵士を見よ」)
大江は1982年に、小田実・小中陽太郎・中野孝次が中心となった『核戦争の危機を訴える文学者の声明』[2]に呼びかけ人として賛同している。この声明に対し本多勝一が、反核運動に批判的であるばかりか軍備拡張に熱心な意見に賛同している文藝春秋から文学賞(芥川賞・直木賞など)を貰ったり、それらの審査委員をするなどして協力しているのは「体制・反体制の双方に『いい顔』をみせる」非論理であるばかりか利敵行為ですらあると批判し、大江に公開質問状を送ったが、大江は何も回答しなかった。また本多は大江がノーベル文学賞を受賞した際にも『週刊金曜日』誌上で集中的に批判的に取り上げ、大江が九条の会を結成した際も、エッセイ『貧困なる精神』で、名指しこそしないものの会自体に疑問を投げかけた。本多による一連の批判について、大江は『取り替え子(チェンジリング)』(2000年)の中に描いている。
1970年のルポルタージュ『
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』には、作品内で集団自決を強制したとされている元守備隊長を「屠殺者」と表現した箇所があるが、「虐殺」を「屠殺」になぞらえる事に対しては、差別表現であるとして部落解放同盟が苛烈な糾弾を行ってきた歴史がある。それにも関わらず、部落解放同盟が『沖縄ノート』や大江健三郎を非難しないのは、悪質な差別であると同時に大江健三郎の神格化がなされていると評論家の呉智英は指摘している[3]。
2006年の訪中の際に、共産党幹部に対し終始低姿勢でいたことから、「民主主義を叫んで害のないところでは叫ぶけど、民主主義を許さないところでは一所懸命に権力に媚びるんです」と評論家の石平より強い非難を受けた。
沖縄戦裁判
詳細は大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判?を参照
2005年8月に梅澤裕と赤松大尉の
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が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。
大江が1970年の著書『沖縄ノート』にて、赤松嘉次陸軍大尉について「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定した上、多くの誹謗中傷を書いたと訴えられたものである。
しかし大江は、『沖縄ノート』には両氏の名前はないこと(これは原告も認めている)、「罪の巨塊」という表現で沖縄戦での日本政府・軍の責任を批判したものであり、名誉毀損ではないと反論している。また執筆のソースとなったのは沖縄タイムス社の『鉄の暴風』であり、執筆当時として信頼に当たるものだし、本人も体験者の話を聞いた上で書いたと述べている。
2008年3月に判決となり、「隊長たちが命令したとは言えないが、軍の関与も認められ、執筆時の資料などの状況からすると(命令があった)と信じるに相当する理由があったものと認められる」として原告の請求が棄却された。原告は控訴を発表している。